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奇異な私と他者視点2

周りを見ろ、人の真似をしろ、人からどう見られているか考えろ。

そのような助言はおそらく通常なら、何を意味しているか、意図するところがなんの問題もなく伝わるのだろう。そう信じているから、通じる、分かるだろう、と疑いなく言葉にするのだ。そうであればどんなによかったろう。だが、分からないのだ。周りのどこを見ればいいのか、人の何を真似ればいいのか、人からどう見られているか、他者の視点が想像できない。人はそれができるのが当たり前で、まさか分からないだなんて思ってもみないのだから、こちらが分からないことが分かってもらえず、言うことを聞かないとか、捻くれているとか、また人と違うことをしている、と非難される。

人の真似をして普通になろうとして、努力すえばするほど余計に奇異になってしまう。どこを見て、何を真似ればいいか、皆目分からないから「ここを真似ればいいかもしれない」という予想は大幅に外れていて、むしろ何もしない方がマシなくらいだ。そして不幸にも、その何をどうすればいいかはどれも、例によって説明しにくいことなのだ。

もし何か不都合な事が起こって、何が問題で、どう対処すればよかったのかが、人の30倍の時間をかけてようやく理解できたとしても、応用力が無いので、一から十まで全く同じことが起こらない限り、似たような出来事に対処することができない。もし超能力がもらえるなら、人の脳内の考えや感情を全部見ることができる能力が欲しい、と切に願った。「そんな能力があったら人間不信に陥るだろう」というかもしれない。それでも構わなかった。もうすでに人のことなど信じていなかったから。人の言葉の意図が分からないから、人の頭の中が見えても、人を理解することはできないかもしれない。現象としての人間関係を穏便に、うまくいっているかのようになりさえするなら、それでもよかったのだ。そんな願いだった。